なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】
「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回
■人間は政治的動物である
中野:小林秀雄がしきりにその頃に書いていたのが、人間の「獣性」についてです。アリストテレス以来、人間は「政治的動物」と言われますが、小林はむしろ「動物」の方を強調している。人間というものは、集団を構成して集団行動をとらないと生きていけない。しかしながら、集団行動をとるときにいかに獣的なものになってしまうか、つまり人間性を失ってしまうかということをしきりに書いているんです。だから小林は政治から目をそむけたということではなくて、人間はそういう獣的なものに陥りがちなんだけれども、その一方で、政治ってものをやらないと生きていけない。そこでどうするかということについて論じていたのです。それは、言葉では表しにくいことだけれど、それを書こうとしてるから、小林の文章は難しく見えるのでしょう。
繰り返すと、人間は集団的に行動しなきゃいけないんだけれども、放っておくとほんとに動物的になって人間性を失ってしまう。だからどこで踏みとどまるかということ。そういう一番言いにくいところを小林は書いている。言い方を変えると、ストライクゾーンぎりぎりを狙ってボールを放っている。その投球術はすごく難しい。そのボール・コントロールの妙こそが、小林のすごいところなんですね。
適菜:「獣性」というのは大事なキーワードですが、簡単に言えば社会学の定義でいう「大衆」ですね。それは近代の負の側面とも言えるわけで、近代の内部でそれを批判するのは「投球術」「フォーム」といったものが必要になると思います。
中野:小林がマキャベリとかに関心を示すのもその一点なんです。政治というものをやらなきゃいけない、集団というものをマネージしなきゃいけないんだけれども、集団の権力に呑まれて人間性を失わないようにするにはどうしたらいいかという難しさについて、小林はずっと書いていているんです。面白いことにそういう難しいことを考えてきた人物についてばかり書いている。プラトンとかペリクレスとかマキャベリとか。
もっとも、そういう昔の政治学の偉人たちの書き残したものは、現代のわれわれからすると、凡庸というか退屈に見えるわけですよ。
ある意味、小林も、言われてみればそんなことは分かってるよ、って言いたくなるような事をああでもないこうでもないって書いているのかもしれない。要するに概念とかで綺麗に、鮮やかに書くことをしていない。ひと昔前の、まあ最近でもいるけど、若いインテリがやるような、スマートな概念で世の中を分からせるような鮮やかさが小林にはないわけですよ。例えばマキャベリのような、煮ても焼いても食えないような難しい人物のことを書いたりしている。マキャベリを退屈だと思っていたが、退屈だと思うことが自体、政治観が歪んでいるのだ。そのことに小林自身が気づいて反省してるんですよね。
戦後、小林は福沢諭吉を極めて高く評価してたんだけど、若い頃に福沢諭吉の『福翁自伝』を読んだ際は、「面白い人だ。非常に面白いけれども、『福翁自伝』の他は読みたいという気にはならなかった」みたいなことを言っていた。小林自身が成熟したり、あるいは読み直したりすることによって、「退屈だと思ってたら、こんな深いこと言ってたのか」と後から気づいて感動してるんですよね。そういうことをじつに素直に書いている。彼の全集を前から読んでいくと、それが分かって、非常に面白かった。
適菜:マキャベリのその本なんでしたっけ? たしか小林が中国かどこかに旅行するときに持っていったんですよね。
中野:『ローマ史論(ディスコルシ)』です。読んでいて「これは面白い」と率直に感動している。『ローマ史論』とか、あるいはギリシャ古典とかを、退屈だとか、つまらないとか思ってしまうことそれ自体がすでに近代に毒されているというわけです。
「小林秀雄は何を言っているのかわからない」とか、「何が面白いのかわからない」と言われているんだけれど、よく読むと、こうとしか言いようのない大事なことを書いているんです。
世間の人は、重要なことは、なんか非常に鮮やかで面白いことだと思っているのかもしれないんだけれど、実は、大事なことは「そんなことは分かっている」と言うべきようなことの中に潜んでいるものです。しかし、それを「そんなことは分かってる」と言ったらおしまいです。大事なことを繰り返されたら、「そんなことは分かってる」などとせせら笑う利口者が一番だめですね。